教育における敏感さ

先日、ある会合にて、「Pedagogical Sensitivity」という言葉を耳にしました。とても興味深かったので、今日はそのお話しをしてみたいと思います。

Max Van Manenという教育学者は、教育において重要なことは、教師の“感度、敏感さ”だと言います。たとえば、教師がクラス内で発するちょっとした発言、視線、動きなどがどれだけ子供達に大きな影響を及ぼすのか、その繊細な関係性を、教師自身がきちんとわかっていなければならないと言うのです。そして、全体的なことや統計的な数値よりも、各生徒の成長や感情面を重視しなければならない、とも説いています。また、常に自分の行動が与えた影響を、クラスの雰囲気を、子供達のモチベーションを知るために、内省(Reflection)をし続けることが大事だ、とも。

 

下記の文章は、英語ですが、彼の論文から引き抜いたものです。

 “The teacher’s practical concerns are less with institutional problems than with personal problems, less with school productivity than with success of their own students, less with system infra-structure than with personal relational issues, less with political educational issues than with emotional and moral issues of their students, less with the corporate efficacies of their practices than with the interpersonal dimensions of their actions. In this sense the focus of teachers tends to be on what we here call pedagogical practical knowing and sensitivities--the complexity of relational, personal, moral, emotional, aspects of teachers’ everyday acting with children or young people they teach (van Manen et. al., 2007)”

簡単に訳しますと、

 “教師の実際の関心事というのは、制度的な問題よりも個人的な問題に、また、学校の生産性よりも自分の生徒の成功に、システムやインフラの構造よりも個人的な人間関係に、政治的教育的問題よりも生徒の感情的道徳的な問題に、(注略)関わることである。こういった意味で、教師の注意は我々がここで呼ぶところの「教育的実務的経験と敏感さ」に向く傾向がある。「教育的実践知識と敏感さ」とは、毎日子供達と向き合っている教師の人間関係、個人的、道徳的、感情的な面の複雑さを意味する。”

と、なるでしょうか。

実際の教育現場においては、教師の関心は全体的なことより個人的なことが、大きな事よりささいな事に占められているのだ、ということだと思います。

 

とある小学校の先生が、こう言っていました。

 「たとえば、1人の男の子が階段の下に立って、興味深そうに上を見上げている。この子は、グループ1の子供で、いつも1階にいますから、2階に上がったことがないんですね。普通の学校なら、どうなるでしょうか?先生が大慌てでやってきて、‘何してるの?教室へ戻りなさい。’と言ってその場から連れ去る、ですね。でも、我々はそうはしません。今、この子を満たしているのは、上の階への興味です。そこで、‘一緒に上を見に行きましょうか?’と言うんです。」

子供が、今、このタイミングで、何に興味を持っているのか。そのタイミングを逃さないことが大切だ、というお話でした。子供が興味を持っているその瞬間が、学びのタイミングである、と。そのお話しは私の心に強く残りました。

 

そして、昨晩の我が家での出来事。夜8時になったので、子供達を連れて寝室に入った時のこと。「本を読もうね~」と言った私に対して、突然長男が「ううん!僕、本を書くの!」と(汗)!!見れば、「僕、すごいことを思いついたんだよ!」という表情で、興奮にきらきら目を輝かせています。

私の右肩には、「ダメだよ、ダメダメ!!もう8時だし、昨日も遅かったんだし、早く寝ないと明日が大変だよ!毎日のリズムをきちんと守るべき!」とささやく右派教育者。一方、左肩には「この顔を見てよ!やらせてあげるべきだよ!少しくらい遅く寝たって、大丈夫!」とささやく左派教育者。そのはざまには、「え~、もう工作道具も色鉛筆も全部片付けたのになぁ・・・また出すの(泣)?」と、面倒くさがり屋の自分もいたりします(苦笑)。

その時、‘はっ’と、「Pedagogical Sensitivity」の話を思い出しました。それで、「今、この瞬間を逃したら、きっと彼は本など書かないだろう。この瞬間を逃してはいけない!」と思い直しました。

長男は、一階から色鉛筆やら水性ペンやらを山ほど持ってきて、ベッドの脇に寝転がって自分の本を作り始めます。次男も一緒になって、くすくす、えへえへ、2人でファンタジーワールドにどっぷり浸かっている様子。30分ほど没頭した後に、2人は満足した様子で眠りにつきました。

 

この30分を、睡眠に使ったほうがよかったのか、それとも、工作に使ってよかったのか、正しい答えは私にはわかりません。けれど、もし就寝を選んでいたら、子供達はきっと反発していたか、ひどく悲しんでいたか、のどちらかでしょう。子供達のニーズに応えることで、みんなが心穏やかに眠りにつくことができたとすれば、30分睡眠時間を削る価値はあったかな、と思います。それに、早く寝ていたら、長男作「モンスター」という本も、この世に生まれていなかったわけですし、ね。

 

ロバに水を飲ませたい時、ロバを無理やり引っ張って、川岸まで連れて行くことはできます。ロバの口元に水の入った桶を差し出すことも、できます。でも、水を飲みこむのはロバの意志でしかできません。そんなお話がありますが、教育においても同じことが言えると思います。子供を学校に連れて行き、イスに座らせて、素晴らしい教材を目の前においてみたところで、実際に学ぶのは子供自身です。子供の興味に寄り添って、意欲がない時に無理強いするのではなく、子供が意欲を持った瞬間を逃さず、そんな風にして子供達と一緒に学んでいきたいな、と思いました。